昭和51年6月19日 朝の御理解

御理解第67節
「何事でも釘づけではない信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ」



信心はとりわけ釘付けであってはならない,日に日に新におかげを受けて行かねばならないという意味においても、本と言うたら一時でも同じ所にあってはならない、めいめいに信心しておらねば長う続かぬ信心のそれぞれの段階と申しますか,違うのですからめいめいにしておらねばなりません。
 あれが間違いでこれが本当という事でもその人にとってはそれが本当これが本当といったような矛盾があるようですけれども、、それは矛盾ではないそれが本当な事、今度銅板に屋根がえが吹き替えらえております、この話が起こりましてもうだいぶなりますが、私その時から何回も避雷針付ける事を今度は今まではつけてなかった、、をもしておりましたけれども一向誰も話をいたしませんから、これもやっぱかんながらで、やっぱつけんで良いのだろうかと私思っておった。
 いうならここのご造営が出来たのが丁度10年前、10年前にわたしに避雷針をつけるということを何人もいうた人がおったが、避雷針はいらないもし落雷してここが焼けるような事があっても、ねもう焼けなければならない事で焼けるのなら、またいろはの意の字からやり直したらよいと言ったような考え方でしたから私はそれを極力反対いたしましたから、避雷針がついていませんでした。
 10年後の今日になって私がしきりに避雷針のことをいうけれども」皆が立ち上がらないような感じ、もう仕事がはじまったのに、もう始まってからはでけんのではなかろうか
とまこれは素人の考えですけれども、思うておりましたけれども誰も話さないから、え、そのままにしておりましたら、昨日午後から麻生さんが見えまして、あちらの奥さんの里が電気屋さん相当手広やっておられる、それからあちらの娘婿さんいわゆるあちらの奥さんの兄弟の方が芯になってやっておられるそうですが。
 避雷針の事を電話でたずねた所が大変まいうなら避雷針専門にやっておられるような話である、と言うような事で言ったら直ぐに見に来て上げましょうと言うので、昨日見に来ていただいて、この広さの建物には、こう言う避雷針でなければならないというように、まあ、計算すると出てくるらしいのです。 
 だからそういうことになったんですけれども、ので、おかげで避雷針がつくことになるわけです、10年前と10年後の今日はそういう風に言わば変わっておるわけです、その事を神様にお願いさせて頂いておりましたら、あの、佐田さんの佐という字と、それから祐うですかね、ネを書いて横に右と書いてあるというような内容ですね、を頂いて。
 例えば今の教団のあり方はどこまでも合理的な、いうならば常識的なという信心に立脚しての信心ですねそれが言うなら右の御結界の有り方だとネを書いて右とかいてある、そしてここの場合は人偏に左と書いて、左のご結界、左と言う事は合楽とこう言われておりますが、ええ、それとこれとが一つになっていくと言う事、避雷針をつけるということはだから、その天の内容という字になるわけですね、これはえ助ける助かると言う事なんですね、段々信心が進んでと言うか釘付けでない証拠に考え方も変わってくるし信心の内容も変わって来る合楽の場合には勿論常識的でなからなければなりませんと同時にね、ある人が見たら非常識と思われるようなあり方をしてまいりました、それを私は非常識と言わずに長常識と言う手下ります。
 道徳と言ったようなものもそう、道徳的でなからなければならないけれどもいわゆる超道徳だというわけです、例えばこれだけ大きな建物を建てるのに避雷針はたてんでよいといったようなことは実に非常識に見えます、けれどもギリギリの所は神様を信じきっての表現である。
 例えば生命保険なんかでも、ここでは絶対かたりませんでしょう、ネ、みなさんがかたりたいというてお願いしてもネ死んだ時に生命保険ば当てするような事でどうするかと、言うような私の持論ですね、焼けた時は焼けた時そこからの言うならば信心を頂いていけば言いのだとというような生き方である。   
 それが今度避雷針をつけるという事になったらね、言うならば信心が釘付けではないと言うしゅるしであります、言うならば誰でもが認めてくれるわけでしょうね、避雷針がつくということ、避雷針をつけないということには信心を段々深くしていくものは、さすがに合楽だなあと、神様をあれだけ信じられたら有り難いなあというふうに信心のほんとに分かる人はそういうかも知れませんけれども信心のない人やら薄い人はそれを非常識と言う、それを私は非常識と言わずに超常識と言うそこに神様という者が土台になってのあり方なんです。
 だからそういう信心をふんまえて、この改めて避雷針を付けるということ、いわゆる天佑の祐という字の内容、助かるというねそういうような事から申しましても、信心は釘ずけ一つのそれこそ馬鹿の一つ覚えのようにもうこうだと決めて一生終わってしまうと言う人がありますよね、ところが金光様の先生なんかにはそれが多いです、先代がこう言うてござったからというて二代も必ずそう、もちろん、それは悪い方とか弱いほうとかじゃありませんいよいよ神様を信じる力が強い方へより本当な事えの言うならば展開でなければなりません。釘ずけではないと言う事は変わっていくと言う事、変わっていくと言う事はより本当な事に変わっていくというものでなからなければいけない、よりおかげの頂ける生き方になっていかなければなりません。
 釘付けでないからやっぱり考え方一つやり方一つではストーッと、んなら信心を落としてしまわなければならないようなことになるかも知れません、昨日研修の後に本田さんに聞いて頂いた話でしたけれども先日から草野の重松さんにこの御神米を入れるもう少し大きなものでなければなりませんからおおきの注文、秋永先生やらもう専門的に図面を書いてそして先生自身が注文に行って下さった。
 私は感心いたしました本当にこの人にあの、どげな事でも頼んで間違いがないなと私はあちらの人物も知っておりますし仕事がまた名人だと言うことも知っておりますから安心しておりましたけれども、これだけ間違いのない事をする人だからと、また一段と思ったんですけども朝、秋永先生と御祈念が終わって向こうにやらせていただいた、まあだ休んであったけども起きて見えて図面を見てから、材料は檜材料のこゆい材料かっこうはこういうかっこうに、どうぞお願いしますといったら、その名人はですよいっぺん実物を見せて頂きますということでした、わざわざ弟子を連れてここまで見にきました私はこれには感心しました。
 たったのわずかな仕事なんですよそれにわざわざ弟子を連れてその現物を見て、いうならお気に入るように作らなければならない、たいがいのもんならキチット図面ができとるわけですから、これを作ればいいですねと言うに違いないです私は信心させていただくならね、本当にやっぱそのくらい違わにや遺憾です、ね、信心を頂いておって信心のない者よりもうかつ信心言うならば時間励行はセずね、みような癖があるね、もう信心のない者からいうてわかる事です、こういうことはね、だから信心しとるなら悪い癖があるならそれを悪い癖をサーットあらためる、時間励行なんかというようなこと家らは、もう信心のない者でもきちつとしていくんですよ、それでその辺の所をしだごだにしていくそして神様神様と言うても何が神様かと言われても仕方がない、だから私は出来ない事は言わないけれども精進すれば信心させて頂くものはこうあらなければならんしかもそれがみやすできるきやすうできる改まろうと思うたら改まれるということをスッキリ改めていく事に精進しなければ私はだめだと思う私はその重松さんのあり方に対して関心致しました。 
 まあ余談になりましたけども、あちら英って、え、応接間に通されて色々話をしておる時にたまたま信心話なった、大坪先生私は子供の時からしっとるが、いうなら小学校が一年違いでしたから,知ってるが、ん、ああたんところの先生の、先生についてござる神様が、まあ、随分高級な神様が宿ってござるんだ、ついてござるんだとこういう訳です。
 あの人は旧ぺいでしたから抑留されて大変、いうなら重い刑にあわなければならん所を、ああ結うおかげを頂いて帰ってきてる方なんだ、その抑留中にその生長の家を読んだですから成長の家の谷口雅晴と言う先生は、そういう事を言われるのです、もう霊界神界といったようなことを非常に、その実際見てきたばしのごつかいとるけん、あれは全部嘘だよといって昨日私は研修のとき話した事でした。
 ね、例えば霊神様の働き点難点というような事はここでは、もう、御霊様が働きをおこされることは絶対ない、死んだものを引っ張り出してきてから舞台で踊れという事と同じ事、ね、ただ私どもの根であり先祖であるその御霊様を尊ぶ大事にすると言うことは絶対なんです、私はその事を頂いて以来と言うものは御霊様に対する考え方と言うのは一段と有難いものに変わってまいりました。 
 それに御霊様にお願いする先代にお願いする、金光様にお願いするというても金光様、教祖に力があるのではない、教祖様は取次ぎの働きはして下さるだけであっておかげは天地金の神様が下さるんだとだから先祖を大事にすればおかげが頂けるというのは先祖を大事にしなければおられないほどしの心の人に天地が感応ましますんだ天地金の神様がおかげを働きを見せて下さる。
 それを、はあー御霊様のおかげ、言わば御霊様を大事にしてから頂くのだから、まあ、御霊様のおかげといえんこともないけれども直接御霊様が働きになさる事は無い信心の徳を持ってあの世にも持っていけこの世にものこしておけるというのはあの世で御霊様が六ねいうならば沢山のお金を持っていけば、あればここでは、んなら楽なようにお徳をあちらえ持っていけば御霊の世界でそれこそ極楽なら極楽、自由自在の御霊の働きが出来なさるのであって、御霊の世界からこちらに送ってやんなさる事ができるはずが無いそれを間違えて殆どの宗教家はそこんとこを間違えてだからしらごついよるわけです。ね、言うなら神様の段階だから合楽の先生にかかってきてござる、ね、いうならば、あの御霊様は、神様は大変程度の高い神様がかかってござる、まあ程度の低いというならそのへんのあぜは知るといったようなものもある。
 ね、ちょっとした霊能者を現すひとがあるということは程度の低い霊が掛かって気とるんだと言うわけなんです、そういうものを色別に説明したり、そういうようなことは嘘です、そういう神学霊学の大家といわれた人の道の出口鰐三郎と言う人は谷口さんよりも、もっと詳しい方です、この出口さんのおでしさんです、その出口さんは本と言うたら金光教の御信者さんです、お母さんが、そしてあれが「  」ね、色々大本教ですか、又は成長の家というふうにわかれたんです,救世教なんかでもやっぱあれから出たんです、だから結局一番親玉がいよったようなことをいうわけです。
 私どももそうかと思うよったですあげな本を読ませて頂いてところが自分が実際におかげをいただいてみてわからせていただくこと、そして教祖様の御信心の素晴らしい事を改めて分からせて頂く、そのことを昨日は研修の時に話した事でした、ね、教祖の神様は
段段実意丁寧な神信心を進めておいでられて,それこそ教祖様が御神前に出られて拍手をうたれると神様が御扉開いて待ち受けてござるというような御神格を受けられた、ね下葉の氏子とかみさまからよばれ一の弟子とよばれ拍手神門,拍手を打てば神門開いて下さるというような御神格も頂かれ,ね,金光大権現とか大明神とかそして金光大神ということはぬけて生き神金光大神というふうに教祖の神様の中にござる神様の位が段段磨かれるに従って,声がたこうなられたということは事実、だからけしてあちらの先生にかかっとんなさるとは程度の低い神様あちらにかかつてきとる神様はちったて程度の高いかみさま
といったような事は嘘です、これはもう成長の家なら成長家の信者ほとんどそれを信じとる、そんなことはあるはずがない。私どもも霊徳に触れる前は言わば御霊関係の事をいうておったり、歩きょると牛のみ霊が懸かってきたり,馬の霊が懸かってきたりするような時代がありましたよ,その自分で不思議で不思議でたまらんごとばっかりありましたけれども,今私がここでハッキリいえることは、ただわが心なるところの神様がだんだんみがかれあらたまれしていくに従って、昇格しておいでられるわけ、教祖様の信心の間違いのなさというのはそれです、ね、そして生神金光大神天地金乃神と同根なりというようなご
神格に進まれた、だから教祖様が仰られ取るでしょうがこの方のことを生神生神というが皆もそのようなおかげが受けられると言う、あぜはしりてきな、いうなら徳を受けきれ段々こう、ね、天理王命的な私が天理王命は邪教だ、もうよこしまな霊がかかっているんだだから金はどんどん人間から吸い取ることばかりしかせんではないかといったようなことを谷口正春さん歯行っておられるですだから天理王命にかかられた中山みきと言う天理教の教祖がもちっと神格を進められたら天地金乃神と同根というようなところまで行っておられたかも知れませんですね。
 そして一番初めから天理王命が懸かられたり、天照大神様が懸かられたりというようなところに、いうなら宗教の危険性、危ないと言う所を私は感じます。教祖様のようにもう間違いがない、もうそれこそ実意丁寧な信心から、ね、下葉の氏子と言う信心が芽だったそれが段々天地の親神様が、こう見ておられるうちに心が段々清まられるだけでなくて
もういよいよ尊い有り難い心に育っていかれる。 
 その育っていかれるたんべんに御神格をこう与えておられる、だからお互いの心の中ね、心の中に神がござると言うその神様が昇格して見える、今日は私がそこん所を何故お話するかというと信心は釘付けではないと言う事を聞いていただきたいのです。
 だから皆さんが申しましたようにね、言うならばヒモノやさんのだれだれさんですら、例えばたったこれだけの仕事をするのにです実意の限りを尽くされるでしょうが、まして信心させて頂く者が実意の限りをつくさづしてどうしていけますか、何時なら何時に集まると決めたら何時に集まる事がでけんごたることで、ああた方の心の中の神様が昇華なさるはずがないです。
 ね、信心させて頂いて、ね、それは人間の業というかどうにも出来ない、いうならば本当に悲しいまでのめぐりがありますよそういうことはなかなかもって一変に改まると言う事は出来ませんけれども、ね、時間励行ぐらいなら、言うなら悪い癖があるならば、その悪い癖を改めようとするくらいな精進くらいならできるでしょうが。
 私は本当に感心しますあの善導寺の今の先生ですね、何かお話をされる時に非常に癖ったです、もう、クック、クセンクセンこれを連発されるんですよね、もうだから聞きよってから気の毒な御立田です、ところがそうですねあの教師の資格を取られて御説教台の前で話をされるようになってから半年ぐらいした時にはそれがスッキリなかったです。
 今でもやっぱり、あのいよいよんときは覚えんごッなってだしょんなさいますけどね、私はそれをお話を聞いてその癖を取られた時にもう本当に感動しました、だからもうこれだけの話が出来てこれだけの改ま事に精進しなさったんだからどうでも一つこれはお話専門の時にきる私が月次祭のとききるのを教衣と言います、御説教の時にきるだいたい服です、だから私はもう早速く、あの帰ってきてから装束屋に今の先生の教衣を作らせて頂いて直ぐお供えさせていただきました。
 もう教衣を着なさる資格があると私は思うたから感心するでしょうがやはり改まらねばダメです改まろうと言う気がなければだめです、でなかったら何時まで立っても信心は釘付けそこで止まってしまうではないですか。釘付けではないね、そこでですそんならば、まあ、私共の信心が釘付けではないから段々清められ改められ行くにしたがつて神格が進んでいく、ね、信心も、を、めいめいにしておらねば長う続かぬ、めいめいにしておらねばあの人のは間違いだからね、言うならば谷口さんが言っておられるように御霊の世界とか神様の世界にはいろいろな悪い御霊がおったり悪い神様がおったりして、悪い神様がついてござるとか合楽の先生には高級な神様がついてござるとかというのではなくて高級な神様に段々育って来なさったのです。
 そこで10年前の私の信心と今日の10年後の信心は今より左右おそなえた神格ができたというてもいいわけでしょうが、ね、それはどこかというと、昨日から頂きますようにね神は言わば姿もなければ声もない疑えば限りがない、そういう漠然とした神様をハッキリと自分の心に頂き止めるという所に焦点を置いての信心であったから絶対合楽の教会に雷サンががおてなさるごたることはなかとと確信する。
 よし万一おてなさったなら、そして火事で延焼したならば、もうそこからの信心をまたやり直すんだという信心、これは10年前の信心、ね、10年後の今日は、いわばそういう左的な信心から右の信心、なら御本部で言うておられる事にも成るほどと、がてんがいきそして合楽の生き方はなおさらいよいよ尊いものとして、兼ね備えていける信心、ね、釘付けではないという事が分かるし、だからあの人の信心は間違とるその段階だからね、けれども一つ覚えのようにして一生持ち続けるということが間違い、ただ間違いないのはね、天地書付をわが信心の要としていかなる時にも金光大神の道貫きて神の働きそのままに、これだけは絶対のものだ。ということですね。
 天地書付を基軸としてこれはもう絶対、これはもう億万年たっても変わらないことなんですね。ただし、いかなるときとは、いかなる時代と書いてある。祈願詞の一節ですよ。いかなる時にも、時ということは時代と書いてある。金光大神の道を貫くということは、おかげを受けられるのは和賀心だという和らぎ、喜ぶ心だと、これだけは絶対のものそのあり方とか、例えていうならば、そんなら、これが全部イス変わりになるかもしれん。御結界も、イス変わりになるかもしれん。
 そんなら奉祭様式でも全然変わってしまうかもしれん。そんなことは全然問題ではない。その芯とするもの、要とするものこれは絶対普遍なものだということ。そして、なら、こちらの信心のいうならば格が上がっていくに従って、十年前にあげなんこついうてござったばってん、十年後には、またあげなんこつばいいだっさしゃったというような、ことでも、それがより本当におかげを頂くことの進展ならばそれが本当だね。そのことのために、信心が助かりにくくなったとか、おかげが落ちたとかというなら、それは間違いすぐ改めて、おかげの頂けれる道を選ばなければもちろんなりません。
 ですからお互いの信心んなら、ね、例えばここでお導きということなんか一言も言わなかった私がです、合楽示現活動に参画させて頂きたいという願いが立てられる事になったらもうとにかく合楽示現活動をしなければ合楽にはおかしくて参られんようナ時代が必ず来るです。  
 あんた何人導いた一人も道引いとらんそげなこっじやおかしゅしてこたえん、ね、というように以前何年前とは釘付けではない証拠には変わってくるでしょう、ね、ここでは断食といい水行といいすざまし修行生の方達がしょりました。それは親先生が若い自分にそういうこともなさったから問い打て詞より増した、寒中にいわば耳納山の山麓に、山中にあるその氷のようなお瀧の水を頂きに行くようなことも毎年毎年やってました、ところが今はそういうことをすると破門にするぞというぐらい変わったんです。
 表行に心行だ、ね、信心が釘付けではない証拠なんだ。皆さんの心にござる神様が、あっちん神様は程度が低いとか、程度が低いという事でしょうけれども、あのその悪か神様が宿つてござるという事は絶対いないわが心の神というものは同じただそれが、磨かれ、あたらまられ、していくうちにです、段々下葉の氏子からね、神門拍手というように段々神格が進められてせめて金光大神までぐらいはね、小倉の桂先生が亡くなられる時が金光明神様、金光大明神というておられた、というようにですせめて、明神様までぐらいは権現様までぐらいはお互いの神格が、進んでいくというくらいな願いを持つために改まらないかん、本気で磨かないかんということになるのです。同じ神様です。同じ神様がただ、成長しておいでられる、いうだけのこと。教祖の神様が、天地金の神と同根といわれるのもやはり下葉の氏子と呼びかけられてね、神門拍手でとか、一乃弟子とかという、御神格を段々高められていった。なるほど、信心は釘付けではないということそして、あの人の信心はおかしいということはない、その時点からまた次の時点を目指して進んでいかれておるとするならば、それはまちがいではないということ。今日は、そういうことを聞いて頂いたんですけれども私は、最近若先生が、あの新約聖書というのを、読んでおります。私も、あまり字が小さいから読めませんけれども、時々そのまぁ~自分が感じたことを話をしておりますが、これはどうでも金光教にもです、新約というと、まねしたごたるけ、新解釈のね、あの教典を作らなければいけないと思うのです。新しい解釈それは、どこまでも教祖の身教えというものをきじゅくにしていわば、合楽で三十年間説き続けてきたものが、あれが残っておりますから、新解釈のいうなら、聖書新解釈の教典を作らせて頂いたら教祖のお言葉だけではアメリカ人には通じんごたるところがあるね。中国の人には分からないようなところがある、けれども、私が話して、来ておる新解釈の御理解なら世界の誰にでも分かるような感じがする。だから、これはあの新約聖書のことでも、ついこのごろまでは、あの明治言葉だったそうですね。明治時代の書籍なんかを読むと、明治言葉があるでしょう、大正時代なら大正時代の言葉がある。昭和時代には昭和の言葉があるように、それはづっと、やっぱりその変えられていくそうですね。いかなる時にも、金光大神の道を貫きてということは、いかなる時代にも天地書付御教えというものは、そのままですけれども、新しい解釈を加えていくということは、しなければいけない。これはどうでも一つこういうような大きな願いを持っておるのですから、新解釈金光教祖教典といったような、ものがまぁ~夢のようなことを申しますけれども、できなければならないということを思います。それは、信心が釘付けではないのですから、そういうふうに、したからというて、異端ということではない。ある人はそれを異端し、するかもしれませんけれども、それは異なったことでは無い。当然のこととして、金光教の信心が、進展極まりなく進展していくなら、当然のこととして、それがなされなければ、ならない時代が必ずくるだろうというふうに思います。お互いの信心も釘付けではないのですから、ばかの一つ覚えのように、10年前にいうとったことをただ、守りつづけておるといったようなことではなくて、合楽の信心のいうならば歩調に合わせていくならばね、その時代、その時の信心が頂けてくることになる。そういう信心によって、あなた方の心の中にある神様が、段々昇格しておいでられることに、つながるわけであります。信心は、めいめいにしておらねばならんというのは、そういう意味だと思います。誰と彼とは、同じでなければならんということはけしてない。信心の段階なのです。どうぞ。